
女子78キロ超級オリンピックで柔道を観戦していると思い出すことがある。小中学校の同級生に地元じゃ負け知らずの屈強な柔道女子がいて、大会があれば漏れなく賞状をゲットしてくるような猛者だけに、学内で行われる壮行会や授与式では必ず体育館の壇上にあがっていた。当時は未だフェミニズムとかセクハラといった繊細な視点が欠落していた時代。校長に「女子柔道78キロ超級…優勝。 あなたは今大会において……云々」と全校生徒の前で律儀に賞状全文を読み上げられ、また全国規模の大会にでも出ようものなら地域住民に向けて校舎の壁に巨大な横断幕が掲示されるなどして、その下限体重を公然と曝露されていた彼女は一体どんな気持ちだったのだろうか。無論、体躯による階級分け自体、競技の性質上無理からぬところであるし、オリンピック選手を含むプロアスリートの方々はそんなことを気にする次元にいるわけもない。しかし、思春期という荒波をいざ泳ぎ始めんとする非アスリートの女子にとっては、自分が紛れもなく78キロ超の階級で無双を誇る逸材であったとしても、競技の外では青い春を謳歌する軟式テニス部女子のメンタルと何ら違いはないはず。ポップティーンのコラムを熱心に読み特定の男子に恋心を募らせ彼の名前を呆然とノートに書いてみたりして然るべき年頃なのだ。にもかかわらず、校長が朗々と読み上げた"78キロ超級"というセンセーショナルなタームに心奪われた性根の腐った男子学生たちをして彼女に付けられたあだ名は「超級(チョウキュウ)」。ハッキリ言ってナンセンスで、世が世なら吹聴者を保護施設に送って猛省を促すべき悪意である。どうか、彼女が男子たちを「他人を蔑むしか能がない憐れな精子どもが。 いつか罰を受け地獄に落ちるがいい」そんな風に強靭な意思をもって嘲笑していたことを切に願うが、まだ若い彼女に修羅の心を持てというのは酷というもの。普通に考えて、このあだ名は耐え難いものだったはずだ。彼女がこの事実を知るに至り、悲しみの果てに「人並みの恋愛など、 どうせ自分には縁がないのだ」との諦念を抱いて、柔道部顧問(46歳男性)を相手に袈裟固めや上四方固めを黙々とキメる畳の上での毎日を呪ったことも一度や二度ではないかもしれない。スポーツひとつとってみても、人生は選択の連続で、理不尽の連続である。彼女が抱いたであろう悲しみや葛藤に今こうして想いを馳せたとしても意…